春夏秋冬ー清水園は、心憎いまでに季節と融合してみせる。それは心であり、時であり、系譜である。ここで新発田の青史をなぞることにする。 二王子山麓に縄文、弥生、古墳時代の遺物が出土していることから、この地の歴史は原始時代まで遡ることができる。鎌倉時代になると、源頼朝の御家人佐々木盛綱が戦功により加地荘地を与えられ、子孫は加地荘に土着して繁栄し、やがて加地、竹俣、新発田など、その地名を性に名乗るようになる。戦国時代にはいると新発田氏が勢力を伸ばして揚北(阿賀野川北部)の中心的存在となるのである。 |
【新発田城下町 古地図】 揚北の中心的存在となった新発田氏であるが、上杉謙信が越後全域を支配下に置くようになると、新発田氏はこれに服属して謙信麾下の武将として大いにその名を馳せることになる。だが、世は有為転変の戦国時代である。天下統一を目指す織田信長に呼応して、新発田氏をきっかけとする戦乱がこの地に勃発することになる。 |
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この頃、全国制覇を目指す織田信長にとって、上杉景勝の勢力は無視できない存在であった。天正9年(1581年)、信長は重家に対し、越中にいる自分の武将と海上に連絡を取るよう申し送っている。こうしたことからも重家の反抗は、地方における大名と豪族の単なる争いではなかったのである。信長は景勝を牽制し、重家は戦国大名への道を進もうとしたことが窺え、独立性を保守してきた揚北豪族の面目躍如たるものがある。 ところが天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が急死するや、戦況は急変する。腹背の一方の障害が消えた景勝は、ここで新発田討伐に戦力を傾注することになるが、重家の徹底抗戦はむしろこれから本格化するのである。こうした中でも刻々と動いているのが中央の情勢であった。 天正12年(1584年)の小牧・長久手、翌13年の佐々成政征伐には豊臣秀吉に荷担し、天下統一を共に扶げた景勝にとって、新発田征伐は秀吉公認となるのであった。それでもこの間、秀吉は両者の講和、さらに重家降伏を奨めるが、いずれも重家は拒絶する。ついに天正14年(1586年)11月、秀吉の断が下る。「新発田のことは、首を刎ねられるべく候、これ以後、何たる儀申し越し候とも、八幡大菩薩許容すべからず候ー」と。新発田重家の命運は、ここに決まるのである。 天正15年(1587年)10月23日、一ヶ月にわたる景勝軍の猛攻に耐えた五十公野城は陥落、そして同28日、新発田城陥落。重家は討死にし、前後7年にわたる男の戦いに終止符を打つ。新発田重家42歳。 男の意地を貫かんがため、破滅への道を選んだ新発田因幡守重家は、いかなる人物だったのか。上杉謙信の小姓として仕えていた13歳の時の林泉寺妖怪退治、謙信が小田原城を攻めて引き上げる際、謙信軍の備えを批判し、弱冠16歳ながら自ら殿軍を立派につとめるなど、年少からの豪勇ぶりはあまりに有名である。景勝との間に調停使者として秀吉が派遣し、重家に面談した木村義清はさらに伝える。「重家の容貌は夜叉の如く、髪は藁で束ね、三尺の朱鞘脇差と四尺の長刀を腰に差し、袴も着けず応対した。出されたお膳には鷹の羽根と鮭の一匹焼きがあった」。 戦国時代が生んだ越後の風雲児・重家の首は後、菩提寺に葬られる。清水園のすぐ近くにその福勝寺はある。 |
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豊臣秀吉の取り立てで、越後春日山城主堀氏の与力大名として入部した溝口氏であったが、関ヶ原、大坂の陣の戦いでは徳川方につき、藩基盤を確立させた。二代宣勝の代になると親藩高田の松平忠輝(徳川家康の第10子)の与力大名となり、徳川家との関係はさらに親密度を深めるが、その後、忠輝配流によって与力の拘束を脱し、名実ともに独立大名の地位を獲得することになる。この宣勝は慶長15年(1610年)家督相続すると、弟善勝に新田打高とともに一万二千石を分知して沢海藩をたてる。これにより新発田藩の表高は、万延元年(1860年)、10万石に高直しされるまで五万石となる。 新発田藩領は、現在の北、中、南の三蒲原郡にわたり、南は中之島町におよぶ広大なものであった。その北辺の地・新発田に城の構築に着手したのは慶長7年(1602年)頃とされ、すべての城郭工事を終えたのは承応3年(1654年)と記録される。五十年以上の歳月を費やしたことになる。その新発田城もいまは本丸大手門、旧二の丸隅櫓、本丸の石垣、堀の一部を残し、わずかに昔の面影を偲ばせているにとどまる。 三代藩主宣直の時代になると、幕藩体制が確立し、領主権力も拡大する。このことは藩領支配体制が整備、強化したことを示し、この結果が新田開発の結実であった。この時代が藩の隆盛期でもあった。藩の下屋敷・清水谷御殿の棟上げが寛文6年(1666年)であるから、やはりこの時代である。この四年後の寛文10年(1670年)に高田馬場の仇討ち、赤穂浪士など講談のヒーローとして後世に名を残すことになる堀部安兵衛武庸が中山弥次右衛門の子として城下に生まれる。 新発田藩領のもうひとつの特色は、信濃川をはじめ中之口、刈谷田、五十嵐、阿賀野、加治など大きな川が領内を流下するほか、潟や沼が点在し、ひとたび雨が降れば、たちまち氾濫し、陸とも沼ともつかぬ土地が領内を覆っていたことである。このため領主と領民のあくなき治水工事が繰り返されることになる。堀を割り、堤を築き、瀬を替える。ただひたすらに土地づくり、農地づくりに励むのである。こうして幕末の藩草高は20万石とも40万石ともいわれるほどの成長を生むのである。渺々たる水田がつづく蒲原平野は、わが国有数の食料生産地である。この土地をつくった新発田藩二百余年は、水に苦しみ、水と闘い、水を克服した歴史でもあった。 |
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列藩同盟に加わっても共同歩調をとらない新発田藩主に対し、同盟の首唱者米沢藩は、下関本陣(岩船郡関川村)の藩主を訪問することを迫る。拒絶することもできず6月5日、12歳の幼君直正は僅かな供を連れて下関に向かった。ところがこれを知った領民数千人は藩主の人質であるとして上人数溜付近で一行を取り囲み、藩主の下関行きの中止を歎願する騒ぎが起こり、このため藩主はその夜、清水谷御殿に泊まることになる。この事件も加わって新発田藩は、かねてから同盟軍により要請されていた長岡方面への出兵に応ずることになる。 慶応4年(1868年)7月25日、海上の新政府軍(官軍)は藩領の太夫浜、松ヶ崎(新潟市)に上陸して新潟の同盟軍を挟撃するが、この作戦は藩家老の工作もあって予期されたことであった。新発田城は官軍の本営となり、やがて新潟平野を舞台にした戊辰の北越戦争は終えるのであった。 新政府軍、同盟軍の両者から旗幟不鮮明を謗られながらも、城下を戦火から守った新発田藩。重臣の脳裏には、その昔、新発田重家の徹底抗戦で城下は戦火に包まれ、塗炭の苦しみを味わった領民の姿があったのかも知れない。 |
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昭和22年1月1日、新発田は県内6番目の市制をしき、同30年、五十公野、米倉、赤谷、川東、菅谷、松浦の各村と、さらに同34年に佐々木村と合併し、その後、加治川村、紫雲寺町、豊浦町との合併を経て現在に至る。 |
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