新発田藩の歴史
新発田藩の歴史
春夏秋冬ー清水園は、心憎いまでに季節と融合してみせる。それは心であり、時であり、系譜である。ここで新発田の青史をなぞることにする。 二王子山麓に縄文、弥生、古墳時代の遺物が出土していることから、この地の歴史は原始時代まで遡ることができる。鎌倉時代になると、源頼朝の御家人佐々木盛綱が戦功により加地荘地を与えられ、子孫は加地荘に土着して繁栄し、やがて加地、竹俣、新発田など、その地名を性に名乗るようになる。戦国時代にはいると新発田氏が勢力を伸ばして揚北(阿賀野川北部)の中心的存在となるのである。
五階菱
古地図
【新発田城下町 古地図】
揚北の中心的存在となった新発田氏であるが、上杉謙信が越後全域を支配下に置くようになると、新発田氏はこれに服属して謙信麾下の武将として大いにその名を馳せることになる。だが、世は有為転変の戦国時代である。天下統一を目指す織田信長に呼応して、新発田氏をきっかけとする戦乱がこの地に勃発することになる。

風雲児
重家天正6年(1578年)、越後大名上杉謙信が急逝すると、謙信の姉の子である景勝と、北条氏康の子である景虎の間で後継者争いが起こる。御館の乱である。この戦いで新発田重家は景勝を援け、大いに武功をあげたものの、その論功行賞が不公平であると激怒し、妹婿五十公野道如斎とともに景勝に対して、公然と反旗をひるがえすことになる。

この頃、全国制覇を目指す織田信長にとって、上杉景勝の勢力は無視できない存在であった。天正9年(1581年)、信長は重家に対し、越中にいる自分の武将と海上に連絡を取るよう申し送っている。こうしたことからも重家の反抗は、地方における大名と豪族の単なる争いではなかったのである。信長は景勝を牽制し、重家は戦国大名への道を進もうとしたことが窺え、独立性を保守してきた揚北豪族の面目躍如たるものがある。

ところが天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が急死するや、戦況は急変する。腹背の一方の障害が消えた景勝は、ここで新発田討伐に戦力を傾注することになるが、重家の徹底抗戦はむしろこれから本格化するのである。こうした中でも刻々と動いているのが中央の情勢であった。

天正12年(1584年)の小牧・長久手、翌13年の佐々成政征伐には豊臣秀吉に荷担し、天下統一を共に扶げた景勝にとって、新発田征伐は秀吉公認となるのであった。それでもこの間、秀吉は両者の講和、さらに重家降伏を奨めるが、いずれも重家は拒絶する。ついに天正14年(1586年)11月、秀吉の断が下る。「新発田のことは、首を刎ねられるべく候、これ以後、何たる儀申し越し候とも、八幡大菩薩許容すべからず候ー」と。新発田重家の命運は、ここに決まるのである。

天正15年(1587年)10月23日、一ヶ月にわたる景勝軍の猛攻に耐えた五十公野城は陥落、そして同28日、新発田城陥落。重家は討死にし、前後7年にわたる男の戦いに終止符を打つ。新発田重家42歳。

男の意地を貫かんがため、破滅への道を選んだ新発田因幡守重家は、いかなる人物だったのか。上杉謙信の小姓として仕えていた13歳の時の林泉寺妖怪退治、謙信が小田原城を攻めて引き上げる際、謙信軍の備えを批判し、弱冠16歳ながら自ら殿軍を立派につとめるなど、年少からの豪勇ぶりはあまりに有名である。景勝との間に調停使者として秀吉が派遣し、重家に面談した木村義清はさらに伝える。「重家の容貌は夜叉の如く、髪は藁で束ね、三尺の朱鞘脇差と四尺の長刀を腰に差し、袴も着けず応対した。出されたお膳には鷹の羽根と酒の一匹焼きがあった」。

戦国時代が生んだ越後の風雲児・重家の首は後、菩提寺に葬られる。清水園のすぐ近くにその福勝寺はある。

水と闘った
はさき慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津に移されると、そのあとの新発田には、加賀大聖寺から溝口秀勝が六万石で入部し、幕末まで十二代、新発田藩主溝口氏の治世が始まる。

豊臣秀吉の取り立てで、越後春日山城主堀氏の与力大名として入部した溝口氏であったが、関ヶ原、大坂の陣の戦いでは徳川方につき、藩基盤を確立させた。二代宣勝の代になると親藩高田の松平忠輝(徳川家康の第10子)の与力大名となり、徳川家との関係はさらに親密度を深めるが、その後、忠輝配流によって与力の拘束を脱し、名実ともに独立大名の地位を獲得することになる。この宣勝は慶長15年(1610年)家督相続すると、弟善勝に新田打高とともに一万二千石を分知して沢海藩をたてる。これにより新発田藩の表高は、万延元年(1860年)、10万石に高直しされるまで五万石となる。

新発田藩領は、現在の北、中、南の三蒲原郡にわたり、南は中之島町におよぶ広大なものであった。その北辺の地・新発田に城の構築に着手したのは慶長7年(1602年)頃とされ、すべての城郭工事を終えたのは承応3年(1654年)と記録される。五十年以上の歳月を費やしたことになる。その新発田城もいまは本丸大手門、旧二の丸隅櫓、本丸の石垣、堀の一部を残し、わずかに昔の面影を偲ばせているにとどまる。

三代藩主宣直の時代になると、幕藩体制が確立し、領主権力も拡大する。このことは藩領支配体制が整備、強化したことを示し、この結果が新田開発の結実であった。この時代が藩の隆盛期でもあった。藩の下屋敷・清水谷御殿の棟上げが寛文6年(1666年)であるから、やはりこの時代である。この四年後の寛文10年(1670年)に高田馬場の仇討ち、赤穂浪士など講談のヒーローとして後世に名を残すことになる堀部安兵衛武庸が中山弥次右衛門の子として城下に生まれる。

新発田藩領のもうひとつの特色は、信濃川をはじめ中之口、刈谷田、五十嵐、阿賀野、加治など大きな川が領内を流下するほか、潟や沼が点在し、ひとたび雨が降れば、たちまち氾濫し、陸とも沼ともつかぬ土地が領内を覆っていたことである。このため領主と領民のあくなき治水工事が繰り返されることになる。堀を割り、堤を築き、瀬を替える。ただひたすらに土地づくり、農地づくりに励むのである。こうして幕末の藩草高は20万石とも40万石ともいわれるほどの成長を生むのである。渺々たる水田がつづく蒲原平野は、わが国有数の食料生産地である。この土地をつくった新発田藩二百余年は、水に苦しみ、水と闘い、水を克服した歴史でもあった。

勤王か佐幕か
勤王か佐幕かー幕末の天下は大きく揺れる。そんな中にあって新発田藩論は早くから勤王にまとまっていた。しかし、長岡、三日市、黒川、村上の諸代藩、加えて親藩会津と藩境を接し、しかも領内に幕府直轄領を抱える新発田藩は、佐幕諸藩に包囲された状態にあり、勤王の旗幟を鮮明にすることは無謀に等しかった。結局、慶応4年(1868年)5月、奥羽越列藩同盟に参加することとなる。

列藩同盟に加わっても共同歩調をとらない新発田藩主に対し、同盟の首唱者米沢藩は、下関本陣(岩船郡関川村)の藩主を訪問することを迫る。拒絶することもできず6月5日、12歳の幼君直正は僅かな供を連れて下関に向かった。ところがこれを知った領民数千人は藩主の人質であるとして上人数溜付近で一行を取り囲み、藩主の下関行きの中止を歎願する騒ぎが起こり、このため藩主はその夜、清水谷御殿に泊まることになる。この事件も加わって新発田藩は、かねてから同盟軍により要請されていた長岡方面への出兵に応ずることになる。

慶応4年(1868年)7月25日、海上の新政府軍(官軍)は藩領の太夫浜、松ヶ崎(新潟市)に上陸して新潟の同盟軍を挟撃するが、この作戦は藩家老の工作もあって予期されたことであった。新発田城は官軍の本営となり、やがて新潟平野を舞台にした戊辰の北越戦争は終えるのであった。

新政府軍、同盟軍の両者から旗幟不鮮明を謗られながらも、城下を戦火から守った新発田藩。重臣の脳裏には、その昔、新発田重家の徹底抗戦で城下は戦火に包まれ、塗炭の苦しみを味わった領民の姿があったのかも知れない。

明日へ
新政府は明治4年7月14日、藩を廃して県を置く(廃藩置県)の命令を出す。溝口家12代にわたる新発田藩274年の歴史はここに幕をおろす。その後新発田には歩兵16連隊が置かれ、城下町から軍都に衣替えする一方、阿賀北産業の中心地として発展することになる。

昭和22年1月1日、新発田は県内6番目の市制をしき、同30年、五十公野、米倉、赤谷、川東、菅谷、松浦の各村と、さらに同34年に佐々木村と合併し、その後、加治川村、紫雲寺町、豊浦町との合併を経て現在に至る。

溝口家歴代藩主
御名・御叙爵・幼名 生年・没年 記 事
秀勝
秀勝公
〈伯耄守〉
幼名:竹君・
金右原門尉
天文17年

慶長15年
戦国期丹波氏並羽柴氏に属し、各地御出陣。
慶長三年、新発田に入封(六万石)新発田城築工。同五年関ヶ原の役のとき、越後一円に蜂起した上杉一揆と津川、三条、五泉に合戦、平定す。
士民を集め治水、開墾の大事業に着手さる。十数年にて沃野を築き、後年蒲原大平野の基をなす。
宣勝
宣勝公
〈伯耄守〉
幼名:主膳
天正11年
I
寛永5年
父君とともに上杉一揆を御討伐。冬夏の大阪の役に参陣。
荒地沼沢の開発を推進さる。士農工商の別なく、これに従事せしむ。打出高一万五千五百石に及ぶ。
御令第善勝公に沢海一万石を分知。
宣直
宣直公
〈出雲守〉
幼名:久三郎
慶長10年
I
延宝4年
治水、墾田の御奨励。故老六十名に及ぶ衆知を集め治水の策を練らる。
新田開拓者に土地を与えらる。
正保図完成。寛文九年五月五日、新発田大地震、城再築。
重勝
重勝公
〈信濃守〉
幼名:久太郎
寛永10年
I
宝永5年
治水、墾田の御奨励。御在世時、百姓繁庶、府庫最も充実せりと。
清水谷に能を催され、士民の見物を許す。観覧者一万一千四百二十九名という。寺の移動実施。
 
重元公
〈伯耄守〉
幼名:久三郎
延宝8年
I
享保3年
治水、墾田の御奨励。儒士を招き、諸士に道を学ばしむ。一方武事の衰墜せんことを憂い、兵書を講ぜしめ、弓馬に名あるものを召抱、なお一芸に心得ある者を召出ださる。
 
直治公
〈信濃守〉
幼名:虎之介・
久三郎
宝永4年
I
享保17年
加治川堀替。紫雲寺開拓、松ヶ崎堀割実施。
自ら節約の実を示され、民庶心服す。
文武を尊び、馬上統筒を試み給うという。
享保四年四月八日、寺町長行寺より出火、城下大半消失、町方類焼の者へ聖篭松木下賜。
 
直温公
〈出雲守〉
幼名:亀之助・
主膳
享保元年
I
安永9年
治水、墾田の御奨励。通船川、阿賀川掘割御普請。
連年早害、水害に御救恤米、領分御手充あり。諏訪社建築。江戸上屋敷類焼。
文事、工芸に御造詣深く、梅郊と号され俳句を能くさる。
 
直養公
〈主膳守〉
幼名:亀次郎
元文元年
I
寛政9年
荒蕪開拓。福島潟及其水路を修む。通船川堀割(所用七百両、役夫十万人)理財の道に長ぜられ民を賑わすに費を惜しまれずと。学問・武芸の御奨励。医学館設立(安永六年)。奉先堂御造立(安永七年)。道学堂創設(安永元年、越後における藩校の□矢とす)。講堂学則を示さる(元入学之徒)。御著書抄録等百数十篇に上る。其勧学筆記は上梓して封内頒つ。
安永号発布。養老の制を定め、孝子、貞婦を表彰。社倉法を定めらる。(備荒貯蓄の法にして各藩に率先す)浩軒と号さる。
領内戸口調査実施(人口十二万七千七十六人)。
 
直信公
〈伯耄守〉
幼名:恵三郎
宝暦6年
I
天明6年
世子の御届けあるも御病弱のため藩主は御子直侯立たる。
直侯
直侯公
〈出雲守〉
幼名:亀次郎
安永7年
I
享和2年
学問御奨励。敬老者、孝子の褒賞。
出水所々にあり、復旧に尽くさる。倹約令発布。
安政元年二月村替(二万石)あり。会津四郡に代り蒲原一郡収公。篤学の君主、御閲覧の書物二千余巻余という。
 
直諒公
〈伯耄守〉
〈信濃守〉
幼名:駒之助
寛政11年
I
安政5年
福島潟開発完成。敬老者、孝子、節婦の褒賞。学問、武芸を御奨励。筆録数十巻、政教海防、医事、等多岐に及ぶ。
尊王開国を唱えられ、報国説、報国画は乙夜の覧に供せらる。天皇叡感斜ならず、御座に置くとの勅錠ありという。
日章旗は公の考案によるもので薩州候これを奏請して国旗の制定を見るに至る。著作においては健斎と号され、画名は景山、茶事は翠涛、退翁、その他東□、蕪軒、格斎、聴松堂と雅号多し。
 
直溥公
〈主膳主〉
幼名:錦之助
文政2年
I
明治7年
佐渡警備物頭出張、野州追討出兵。
慶応二年五月藩兵状況御警備。同三年四月、京都より召に応じ御警備のため御上京。御参内竜顔を拝し、天杯を賜わる。(天杯は神社社宝)
(安政二年江戸大地震本藩江戸屋敷大破)
慶応三年八月八日御隠居。(幼君十三才)以後も主要なる政務をむられ、幕末多端の際に対処される。
 
直正公
〈伯耄守〉
幼名:誠之進
安政3年
I
大正8年
慶応四年四月会津藩より徳川のため義兵の用意あるべしとの談判あり。御交誼のこともあり、和談の尽力は惜しまず。御申入は同意し難しと拒否。周辺強藩の重圧相次ぐ。五月深謀決するところあり、奥羽同盟に加入調印。両度の城中大会議は、地雷・砲火による撃破論、玉砕論、自重論等意見百出ず。老公の意を体し陰忍、時期を侯ち、王事に尽くすことに藩論統一す。以後犠牲軍の編成、戦闘、脱出等苦難言語に絶す。米沢藩主、上関に来り、合議の事ありと藩公を人質にせんとす。町民農民武器をとって蜂起し、これを阻止。官軍太夫浜、松ヶ崎に上陸。参謀黒田了介来る。藩公、官軍本営に同侯、総督宮に拝謁。新発田城官軍本営となる。藩兵官軍として各地に転戦。兵員千四百名、明治元年十二月上知。同二年六月十八日版籍奉還。