足軽長屋

足軽長屋 「清水園」の東側を流れる新発田川。この川をへだてた路すじに「足軽長屋」はあります。天保13年(1842)に藩の普請奉行が建てた棟札がみられます。 新発田藩は軍事的理由から、城下の幹線道路の出入り口付近に人数溜まりをつくり、その外側に「足軽長屋」を置きました。長屋は旧会津街道口、古くは足軽町とよばれた上鉄炮町の裏につくられ、幕末まで4棟あった清水谷長屋のうちの1棟。当時の城下絵図には、「北長屋三軒割八住居」としるされています。

「足軽長屋」は、桁行24間、梁間3.5間、寄棟造りの茅葦屋根をもつ八戸の棟割長屋。一戸の主屋は間口、奥行3間の9坪、裏には2坪の炊事場と1坪の土間が下屋造りでついています。主屋の間取りは、半坪の入口土間、炉付の2坪半の板の間、それに8畳と4畳の2室、または6畳2室。床や書院はなく、軒高で内法高は低く、小屋組みも叉手構造のつつましい造りです。 当時の住人は、記録によると姓のあるのは1人だけで、ほか7人は名のみ。役職は御門番組・御旗指組などの小者と御綱方と、足軽以外のきわめて身分の低い家臣でした。幕末の下級武士の生活ぶりを伝える住居は、全国的にも例をみない貴重な遺構です。

昭和44年の春頃まで住居として使用されていました。現在の建物は、昭和46年に解体修理に着手、翌47年6月に完成させたものです。
【昭和44年12月18日、国重要文化財(建造物)指定】

石黒邸

石黒邸
この建物は、以前新発田城三の丸の近く、八軒町(市役所裏)にあった石黒門三郎(70石)の居宅*を、(財)北方文化博物館が移築復元したものです。江戸後期の標準的な武家の居宅として、当時の生活が偲ばれる貴重な建物です。清水園構内、駐車場脇にあり、入場無料となっております。

また、新発田市内には同様に昭和53年から55年にかけて解体された5棟の武家屋敷が存在し、その解体部材は旧赤谷中学校の体育館に保存されていますが、未だ復元の目処が立っていないそうです。
【平成11年 市指定文化財】
*「新発田武鑑」による