石油富豪から豪農伊藤家へ渡った建物。そして八一の人生。

新潟分館は、出雲崎町尼瀬の西山油田の掘削によって巨万の富を得た長岡の清水常作氏が明治28年(1895年)に別宅として建設したものですが、清水常作氏の逝去後、明治末期に七代伊藤文吉が新潟別邸として取得しました。

一方、曾津八一は明治14年に新潟古町の老舗料亭「會津屋」で生まれました。新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)から東京専門学校(早稲田大学の前身校)へ入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、明治39年に早稲田大学の英文科を卒業しています。

卒業後は新潟に戻り高校教員となりますが、早稲田中学校の教員として再び上京、15年後に早稲田大教授となり仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(昭和8年)で文学博士に。その後芸術学専攻科の主任教授に就任します。

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昭和20年、戦災にあった八一は新潟県旧中条町に疎開、坂口献吉氏(坂口安吾の長兄・元新潟放送初代社長)に請われて昭和21年5月『夕刊ニイガタ』の社長に。新潟市内での住居を坂口氏に依頼するも当時は戦後の混乱期で住宅事情も悪く、同氏は東奔西走して伊藤文吉の持ち家である新潟別邸に白羽の矢を立てました。そこから逝去されるまでの10年間、會津八一は当館の洋館を「南浜・秋艸堂」と呼んで住まうことになります。
昭和23年・早稲田大学名誉教授。昭和26年・新潟市名誉市民。同年・『會津八一全歌集』で讀売文学賞受賞。