1756(宝暦6)年、伊藤家の歴史が始まる。
初代文吉が1756(宝暦6)年に20歳で分家。約13,000㎡(東京ドームのグラウンドと同じ広さ)の畑が与えられ、六畳二間と台所の家に移り住みました。間もなく紺屋の娘 きよを嫁とし、百姓のかたわら藍の商売も営みます。
1801(享和元)年、文吉の子 安次郎が35歳で二代目文吉の名を継承。この二代文吉は、1837(天保8)年に名字帯刀を許されると「伊藤文吉」を名乗るようになりました。その頃、藍の商売だけでなく雑穀・質屋・倉庫業を屋号「いはの家」として営み、百姓をやめ、知行所一財力のある豪商となります。
その後、二度目の妻の先夫の子 為次郎を養子にとり、為次郎は三代文吉として伊藤家の土台を築きあげました。しかし、四代文吉を継ぐはずの佐六は44歳で他界。そのため三代文吉の孫 要之助が、16歳という若さで五代文吉を襲名しました。
●航空写真(新潟市江南区沢海上空)
伊藤家ゆかりの地、沢海(そうみ)。
手前は新潟が誇る大河・阿賀野川、上に蛇行するのが小阿賀野川で、その間に挟まれ細長く延びるのが、「沢海」集落になる。1610(慶長15)年より77年間、沢海城と呼ばれる陣屋があり、11,000石のささやかな城下町として栄えた。その後、沢海は天領となり、代官所、続いて旗本小浜氏の知行所が置かれていたが、1869(明治2)年の藩籍奉還によって武家社会が終わり、伊藤家が台頭する時代を迎える。
1889(明治22)年、8年をかけ伊藤邸完成。
時代は江戸から明治へ。1882(明治15)年、五代文吉は用意した土地約18,000㎡において新しい伊藤邸建築工事を始めます。会津・山形・秋田から買い付けられた資材が運び込まれ、約8年の歳月をかけ1889(明治22)年に現在の伊藤邸が完成しました。
六代文吉 謙次郎は、豪商として手腕を発揮。1892(明治25)年、名門村山家から嫁を迎えいれ、その披露宴は三日三晩盛大に続けられたといいます。しかし着々と所有地の拡大を続ける中、1903(明治36)年に33歳の若さで急逝。
七代文吉は、わずか8歳の次男 淳夫が当主となりましたが、一族が支えることで大地主として揺るぎなく成長を続けます。1908(明治41年)年には所有地が1,385ヘクタール(東京ドーム約300個分もの広さ)※となり、伊藤家に暮らす使用人も約60人へと膨らんでいました。
そして時代は明治から大正へ。七代文吉は慶応大学を卒業後、アメリカのペンシルバニア大学に留学。帰国後の1927年(昭和2年)には八代文吉となる吉彦が誕生しました。※訂正…正:1901(明治34)年に1,063ha、1924(大正13)年に1,346ha、1944(昭和19)年に1,372ha
●六代文吉一周忌 伊藤一族記念写真
1904(明治37)年6月。中央の少年がまだ幼い七代当主。
左は祖母・キイ。右は母・真砂(まさご)。キイは近隣の旧茅野山村押木家より13歳で嫁ぎ、十人余りの子を産んだ。夫である五代当主亡きあとは女ながらに長年にわたって一家の実権をにぎり、一千町歩の大地主への道のりを歩んだ。真砂は、当時伊藤家よりも格上の旧家・旧高柳町の名門村山家より16歳で嫁いだ。夫である六代当主亡き後の伊藤家を姑のキイとともに支えた。
後列向かって右から3人目の男性は、七代が成人するまで後見人を務めた伊藤九郎太。彼は六代の弟で、後に分家し南浜伊藤家の当主となる。(南浜伊藤家の当時の住まいが、現北方文化博物館新潟分館。)